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17.05.22(Mon)

福島県南相馬の今。我が子を見つけるということ。1

熱田 護

熱田 護写真家

モータースポーツは、楽しっ!―― モータースポーツを中心に自動車やバイク、写真などについて紹介。

僕が、福島県南相馬市に最初に行ったのは、2012年の2月。
その後、何度か南相馬に通うようになりその地で出会った人達から聞いた話を僕が感じたことなどを交えて紹介していこうと思います。

2011年3月11日を発端に、東北では今も、多くの悲しみが積み重なっています。
6年という月日が流れて、確かに復興を実感できるのですが、そうでない人、場所も多くあります。

僕の拙い文章ですが、どうかお付き合いをお願いします。

第1回は、福島県双葉郡大熊町に住んでいた、木村紀夫さん(51歳)にお話を伺いました。
大熊町といっても、どこにあるか知らない方が多いと思いますが、福島第一原子力発電所から東京方向にたった3kmほどの場所です。
大熊町の空撮写真。黄色い菜の花畑の右側の空き地が木村さんの自宅跡です。
津波は奥にあるブルーシートがあるあたりまで押し寄せました。
そして、海沿い右方向に約3km行ったところに福島第1原子力発電所があります。
(写真:海老沼明さん)

海岸から間近にあった木村さんの自宅にも津波が押し寄せ、父、王太郎さん(当時77歳)、妻、深雪さん(当時37歳)、次女、汐凪さん(当時7歳)が亡くなりました。
王太郎さんは、自宅から200mほどの田んぼの中から、深雪さんは南に40km離れた洋上で見つかり、汐凪ちゃんだけが、熊川地区で唯一の行方不明者となりました。
震災後は長野県の白馬に自宅を移して長女の舞雪さん(16歳)とお母さん、愛犬と暮らしています。
原発の放射能漏れで、当然ながら帰宅困難区域に指定された大熊町。
娘の汐凪ちゃんを見つけたい木村さんは、白馬から最初一人で年間15回、1日5時間の滞在許可を得て、捜索に入り、今までに約30回にわたり大熊町に入っています。
広大な場所に、点在する大量の瓦礫、何度か通っても一人ではどうすることも出来ないと思いはじめたところ、南相馬の福興浜団という団体の代表である上野敬幸さんから、お手伝いの申し出があり、その後一緒に捜索していく中、徐々に仲間も出来て考え方の変化も出てきて、重機を入れて大人数での捜索を開始。2016年11月9日、瓦礫の中から見つかった、汐凪ちゃんが当日着用していたマフラーの中に首の骨が、12月11日には顎の骨の一部が見つかり、22日に福島県警の双葉署からDNA鑑定の結果の連絡があり、正式に汐凪ちゃん発見というニュースが全国に発信されたので、そのニュースをみてご存知の方も多いと思います。

そんな、汐凪ちゃんを見つけ出すまでの木村さんの気持ちを聞いてきました。
自宅跡を眺望できる丘から笑顔の木村さん

木村汐凪さん


「最初の頃の自分の気持ちを今振り返ってみると、見つけ出すという気持ちよりも、やらなきゃならないという気持ちで止まってしまっていたんですね、心がね。
でもあの場所を一人で捜索していては一生かかっても終わらないし、2014年ごろから、上野さん達と作業をするようになって、随分と気持ちが変わってきたんですね。
それから、3年間手作業で一緒にやってくれている。ということは、見つけ出さなきゃならない。
重機については、中間貯蔵施設になる前に、大熊町の議員さんが行方不明者がいるんだから瓦礫の片付けをしっかりやれと、環境省に言ってくれたんですよ。
でも、自分の目の届かないところで、作業が進んでいくのが嫌で1年以上どうするかの返事をできないままでいたんです。
自分の気持ちの変化の中で、やっぱり重機を入れてやってもらわないと、人数がいても手作業では終わらないと考えがまとまって、こちらから、去年の夏ぐらいに、環境省に連絡をしました。
まあ、あちらは返事を待っていたので、9月にミーティングをして、11月からやりましょうということになりました。

本当に不安だったのは、作業を丁寧にやってくれるかということ。
結果的にあの場所から見つかったというのは、震災後に最初に作業した自衛隊が見落としていたということ、でも、自衛隊が悪いとかそういうことではなく、当時住民の一時帰宅の時期まで2週間しかなかったので、その中で精一杯やってくれたんだとは思うんです。
上野さんもよくいうんですが、復興のために置き去りにされたという感じですね。
その時と、同じような方法でやられたのでは見落とす可能性が高いわけじゃないですか、それがとっても不安でね……
でも実際に作業を見てみると、だいたい20人くらいのジョイントベンチャー(以下JV)の方々が本当に丁寧にやってくれて安心しました。
現在は、そのJVの方々にやってもらっていて、その指示で、うちらが手伝うという形の作業をしています。
瓦礫の山から、汐凪ちゃんが当日付けていたマフラーが見つかり、その中から首の骨が見つかります。

今は顎の一部と、首の一部、そのほかに小さな骨が50個ほど見つかっている。
本当に細かくて、まだごく一部です。
病院から警察に、遺体検案書というのを書いてもらうんですが、福島医大の先生から、少なすぎて書けないと言われているんです……
今は、作業員が中心になってやってくれています、警察は全然動いてくれません……
警察の仕事じゃないかと思いますけどね……
2011年5月の自衛隊捜索の時に、今ぐらい緻密に時間をかけられていれば、絶対今より見つけやすいはずだったし、綺麗な状況で見つかっていたかもしれないわけじゃないですか……
そうできなかったのは、国の対応なり、原発事故の責任。それは誰が見てもそうだと思うんです。
責任を追及するとか、そんなつもりはないですけれど、もう少し考えてくれればなと思います。

色々な、規則、決まりで邪魔されて来たなあ〜って思う。

原発の影響で、放射線量が高い場所で、不特定多数の方に作業をお願いしづらい状況があって、でもそういう状況の中で唯一、福興浜団の上野さんから「声をかけてもらえればいつでも大熊に入るよ!」と声をかけていただいて、半年ほど悩んだんですがお願いすることにしたんです。
これは、本当にありがたかったし、それがなかったら未だにひとりで捜索していただろうと思うし、環境省にもお願いしなかっただろうと思います。
浜団様様ですね。
それと比べて、ね〜!やっぱり国だったり町だったり行政の対応は、納得がいかないことが多くて。
多分ね、一人一人はそれなりに心は持っていると思うんですよ、それが大きな組織になってしまうと全く動いてくれなくなってしまう……
なんなんでしょうね?

大熊の自宅の土地を売る気も貸す気もないということを環境省には伝えてあります。でも環境省としては、それは認められないので、ハンコを押してもらうまで通いますと言われています。30年にわたって、中間貯蔵施設として使うことになっているのですが、仮に私が30年間ハンコを押さなくても大丈夫みたい…… 笑

でも自宅の周りも、徐々に売ったり貸したりするところも増えていくと思います。だから、うちの田んぼ以外、全部フレコンバックが置かれるようになるかもしれない。

2018年の冬くらいから、焼却施設を稼働し瓦礫など焼却して体積を小さくして出た灰などを壁、天井を作って貯めておくのか、土を掘ってシートをひいて土を被せるなりして保管することになるらしいです。

2017/5/3撮影。木村さんと福興浜団のみんなによる菜の花畑に、汐凪ちゃんが描かれます。 地上にいると全くわからないのですが、空からはハッキリと見えます!右下の笑の文字は、木村さんが一人で作ったそうです!汐凪ちゃん、見てるかなあ???(写真:海老沼明さん)

地上から見ると、まさに、花園!

最近は色々、前向きに考えれるようになって、色々やりたいことも出て来たんですよ。
昨年大熊に菜の花、ひまわりを植えたんです。
いま住んでいる白馬で、できるだけ電気に頼らないで生活をするということをやっているんです。
去年の夏に、火を起こすことからご飯を作るというイベントをやったんです。それが結構面白かったんです。
その時に、オイルランプがあって、それで今年は、菜の花で、菜種油、ひまわりもあるし、親父が植えていた椿も今増えていて椿油も取れるので、その油で自宅の照明はその油で賄うとかね。
そうすれば、大熊と白馬がつながったような感じになるじゃないですか。

極力、電気を使わないで生活をできないかという模索をしています。
一番の懸念は鹿の肉を保存する冷蔵庫です。
ソーラーとか風力とかを組み合わせ、冬は天然の雪の中とかね。
テレビとかパソコンなどは極力使わないで照明はオイルで。

こういう風になってしまったんで、今の世の中に属したくなくて……
原発反対!と外に向けて大声でいうつもりはないですけど。
原発で生活している人はそれはそれでいいんですけれど、俺はそこにも入りたくない。
決して直接の原因は原発事故ではないんだけど、その代償が汐凪の5年9ヶ月だと思っていて。そう思うと、実際に原発で発電した電気を使っているのは自分たちなわけで、ということは原発を肯定しているのも一緒であると思っているので、これまでのように普通に電気を使っては生活できないと思うんです。

そういうことではないかもしれないですけど……
本当に、綺麗な黄色。

自宅周辺の瓦礫が全部見終わって、汐凪については区切りをつけざるをえないという状況になるかと思うんですけれど、気持ち的には区切りをつけるという感じにはならないような気がしますね。
まあ、菜の花のように油の話もあるし、あの土地でやれることがあるというのが自分にとってすごく救いなんです。

遺骨が見つかった瓦礫の山というのは、12年6月に当日履いていた靴を見つけた場所だったんです、その時もね、あそこで手を振ってたと思うんですよ。
そのあと、私が見つけられなかったので、上野さんに繋いでくれて、さらにこれからあの場所でいろいろやっていきたいと考えていた時に、汐凪が出てくると……
すんげ〜あいつ空気読んでるなと思う……すごく気を使う子だったんですよ(笑)
なんかそういうことを考えると、全部、汐凪が段取りをして進んでいるなと思う。だから今後も汐凪が段取ってくれる中で遊ばしてもらっている感じですね。多分、いや絶対、笑っていると思う!

だから、汐凪を探すことに関しても気持ちの整理などつかないけれど、でも、つかなくてもいいな〜と思って……
瓦礫の中からは、家族の衣類や生活用品がたくさん出てきました。
そんな品は、きれいに洗濯をして町内にあるお寺に並べてあります。線量が高いので、持ち帰ることが許されないのです……

その線量の推移。お寺にあった立て札。徐々に下がってきていますね。ちなみに東京の線量は0.02マイクロsv/h

ほかの行方不明者の捜索ということに関しては、大熊の海の方は手付かずですからね。ですから、正直今はまだ汐凪の事で手いっぱいだけれども、今後は海岸も見て捜索してみたいと思っています。
ある意味、汐凪は見付けやすいところにいたんだもん。
ついこの間、女川で漁網に遺骨が引っかかって見つかったという奇跡もあるんですよね。
海に行ったと、それぞれ整理がついている人もいるんだろうけれど、まだ発見されることもあるんだということですよ。

探している人間がいれば、見つかる可能性は0にはならない。」

大熊町にもあるフレコンバックの山、今後どんどん増えていくんでしょうね。

熊川、透明度は高く、鮭が遡上する川。橋の欄干は、応急処置のまま。

東北で津波の後には、破壊された車がこのようにありました。
でも、今もこのようにあるのは少なくなってきてます。

お家と公民館。
電線も切れたまま。まあ、そうですよね。

熊川海岸にある階段、この階段を登って降りて海水浴を楽しんだ人はたくさんいたんでしょうね。

ものすごいエネルギーだなって思って……


2011年3月11日、木村さん一家の行動を推定すると……
14時46分に地震が発生します。
おじいさんの王太郎さんは、車で長女の舞雪ちゃんを迎えに行く途中で地震が発生します。
汐凪ちゃんは、小学校の向かいにある、くままち児童館で遊んでいて、夕方にお母さんが迎えに行く予定でした。

15時半前に津波が木村さんの自宅を襲います。
汐凪ちゃん、お母さんの深雪さん、王太郎さんが津波にのまれてしまいます。
木村さんは、内陸の職場にいて無事でした。
12日午前中に消防団が捜索に入って木村さんの自宅近辺で、呼びかけに「お〜〜〜」と答えた声を複数の人間が聞いています。しかし、原発の爆発で即時避難命令が出て捜索できないまま撤退となりました。
深雪さんは、40km離れたいわき市の海上で見つかり、王太郎さんは自宅から200mほどの場所でうつぶせになった状態で見つかります。

当日、ここには多くの児童がいたはずです、その中で、汐凪ちゃんはこの門を通っておじいさんと一緒に帰ってしまった。
木村さんは、今、何を思うのか……津波のことを、もっと教えておけばという後悔。

混乱のままの自転車置き場。

汐凪ちゃんの遺骨の一部が見つかった場所に立つ木村さん。
ここをJVの方々や、浜団のみんなが、細かく丁寧に土をふるいにかけながら捜索しました。


大熊町での唯一の行方不明者が、汐凪ちゃんとなりました。
5月の頭に、自衛隊による、おびただしい瓦礫を撤去しながらの捜索がありました。
そして、約6年後の2016年11月9日と12月11日に、その瓦礫の山の中から、小さな遺骨が見つかりました。
現在は、その小さな骨が見つかった瓦礫の山は、徹底的に探し終わって小さな窪みになっています。
このことから、まだ見つからない体の大部分は、未だに他の瓦礫の山にあるという確率が高いと思われます。
2011年5月の重機撤去により瓦礫とともに運ばれバラバラになってしまったのではないでしょうか?
もし、仮に、大熊町の近くに原発が無かったら、翌日に王太郎さん、汐凪ちゃんが生きて帰っていたかもしれないし、汐凪ちゃんがバラバラになる事も無かったはずではないでしょうか?
木村さんが、その汐凪ちゃんが見つかった窪みを見つめながら言います。
「こんな形で見つかるのならば、いっそ、陸にある瓦礫の後を全部探し終わって見つからず、海に行ったんだと思えた方がずっとよかったと思うんです」

「見てください、子供って面白いよね、村の字が左右逆なんだよね」笑顔で話す木村さんでした。


僕は木村さんには、今までに3回くらいしか会って話したことはありません。
とても、穏やかな印象の方です。話している間も、あまり感情を表に出すタイプの人ではありません。
しっかりとした意志があって行動するタイプです。
東京で普通に暮らしている僕が、木村さんの5年9ヶ月の気持ちを想像してみても、想像を絶する毎日の積み重ねだったのではないかと思います。
自分の町でたった一人見つからない自分の娘を、広大な場所にうず高く積まれた瓦礫の山があちこちにあり、そのどこにいるのかわからず、行政はほとんど助けてくれない中で、一人探し続ける時の気持ちをどう想像できるというのでしょう?
なぜ、誰も助けてくれないのだろう?
原発は安全であると日本国の政府が太鼓判を押し、電力会社が責任を持って動かしていたわけで、それが、予想できなかったなどという言い訳など意味のない規模の放射能をまき散らし、自然豊かな普通の暮らしがあった場所に津波にのまれて助けを待っていた人がいたかもしれない場所が、人が存在してはならない状況に瞬時に様変わりしたわけです。
我が子を探したいという気持ちにいったいどれだけの役人が真摯になって対応し、そうなってしまった場所に東電は何をしてくれたのか?
多分、ほとんどの人は、汐凪ちゃんは海に行ったんじゃないのか?と思われていたんじゃないでしょうか。
木村さんの信じる力と、木村さんを応援した福興浜団のみんな、JVの方々の力があって、5年9ヶ月もかかってしまいましたが、見つけることができました。
奇跡的という表現も出来るかもしれませんが、汐凪ちゃんは、ずっと、ずっと、そこにいたんですよね。
皆さんは、どう思われますか?


取材協力
深山の雪 / team汐笑プロジェクト